【映画感想】素晴らしきかな、人生(2016)

こんにちは、

Herstalです。

 

映画 素晴らしきかな、人生

2016年

ウィル・スミス主演

 

を観ました。

 

~あらすじ~

最愛の我が子を亡くし、精神を病んでしまったハワード。

自己の所有する会社に出社するも、誰とも口を利かずドミノを組み立てて帰る。

そんな生活が3年も続いたころ、ついに会社は経営の危機に瀕するも、ハワードは改善策の話し合いにすら参加しない。

ハワードが議決権を行使できる精神状態ではないことを証明し、ハワードの議決権を譲渡させるという最終手段に苦しくも打って出る仲間たち。

ハワードは、ビジネスマンとして腕を振るっていた頃から「時間」「愛」「死」の3つが人を動かす要素であると考えていた。

最愛の娘を奪われたことに対し、「時間」「愛」「死」に向けて抗議の手紙を書きポストに投函したところ、仲間が雇った探偵がその手紙を入手する。

仲間たちは、そんなハワードが可哀想でたまらなく感じたが、残酷にもこれを利用してハワードの精神状態を証明することにする。

精神病の人間が発する妄言に対しては、それを正すのではなく、妄想に入り込んだ返事をすると、本人は安心する。

そこで、「時間」「愛」「死」の3人とハワードを対話させてみようという案が浮かぶ。

仲間が偶然知り合った3人の劇団員に、それぞれ「時間」「愛」「死」になりきってもらい、ハワードからもらった抗議の手紙に対する抗議をしに行くというめちゃくちゃな作戦を実行した。

劇団員の演技力もあり、ハワードは完全に自分にしか見えない幻覚を見てしまったと信じた。それと同時に、「時間」「愛」「死」に対する怒りをあらわにする。

その様子を探偵がビデオ撮影し、劇団員を編集で消すことによって、あたかもハワードが一人で「時間」「愛」「死」に対して怒鳴り散らしている映像が出来上がった。

これを証拠としてハワードの議決権を譲渡させることに成功し、会社は存続することができた。

それにしても、3人の劇団員が「時間」「愛」「死」になりきった演技は迫真のものであり、ハワードの考えに対する新たな反論をもきっちりと語り掛けていた。

仲間のうちの一人は女性であり、結婚をすることなく会社に人生をささげてきた。本心では子供が欲しかったのだが、年齢もあり諦める。その女性に対して「時間」役の劇団員は言う。「まだ時間はある。子供は引き取ることだってできる。これから先の時間、人生を共有することが親子なんだ。」

2人目の仲間はハワードの相棒であった女たらし。浮気をして離婚したことによって娘に嫌われており、クリスマスすら一緒に過ごせない関係だった。その男性に対し「愛」役の劇団員は言う。「私はこの役をやりたくない。でもあなたが娘さんの気持ちを取り戻すのならば、やってもいい。」

3人目の仲間は重い病気を患っていて先が長くなく、そのことを家族に話せないでいた。その男性に対し「死」役の劇団員は言う。「家族には絶対に話しなさい。死なんて見方ひとつ。完全になくなるものはないわ。」

ハワードは娘の死をきっかけに離婚した妻のもとへ行き、最愛の娘が亡くなったことをついに受け入れた。

後日、二人が公園を散歩している様子を、3人の劇団員が微笑みながら眺めていた。

ハワードが振り返ると、3人の姿はなかった。

~あらすじ以上~

 

 

娘を失ったことをいつまでも受け入れられないハワードを目覚めさせるストーリーだと思ってみていましたが、途中から3人の劇団員が仲間たちの抱える悩みにヒントを与えていく様子から、様々な人生に対するアドバイスになっているのだと分かりました。

 

ハワードの力説する要素であり、劇団員が扮した概念である「時間」「愛」「死」。

 

それぞれが何を与え、奪っていくのか。考えようとすれば、自分が今生きていることの意味まで考えが及びます。生きていくうえで胸に刻むべき要素です。

 

ハワードがいつまでも娘の死を受け入れられないことは仕方がない事でもあると思います。でも、ハワード自身の人生も会社もまだ先がある以上立ち上がらなければならないのも事実です。

 

ハワードは最終的には娘の死を受け入れられました。私は自分の後悔を受け入れられる気がしません。ハワードを見習いたいです。

 

3人の劇団員が3人の仲間の悩みに一致した配役であることに気づいたときは感心しました。それぞれの役に応じて3人の人生を「素晴らしきかな」に持っていくためのアドバイスをするシーンは涙がでました。

 

3人の仲間は、ハワードと会社を救うために動いたはずなのですが、結果的に自分たちも助けられたのです。

 

物語の最後、3人の劇団員が姿を消したところで確信しました。劇団員は人間ではなく、本当に「時間」「愛」「死」の概念だったのだと。少しホラーなようですが。。。

 

私は、自分の人生において、「時間」を無駄にしてきました。せっかくのプレゼントを無意味に消化してきてしまったのです。

 

「愛」も他人にあまり与えませんでした。というのも、「愛」って何かが分からなかったのです。もちろん、仲の良い家族でしたし、両親からの愛情は受け取っていました。しかし、心と心のつながりあいという意味での「愛」はイマイチ理解することが出来ずに、ここまで生きてきました。義理だけで動いていた感じですか。

 

「死」については考えてきたつもりです。小学生の頃から、生きる前は何をしていたのだろう、死ぬとどうなるのだろう、と考え込んで気を遠くしていたほどです。ですが、「死」を恐れ遠ざける方向の思考ばかりでした。人間、「死」ぬからこそ今を全力で生きようとするのでしょう。「死」を遠ざけていては全力が出せません。

 

 

解釈の至らない部分はあると思いますが、以上が私の感想です。

 

総合

面白さ 中

感動 高

生き方の指針 高

苦悩の解消 低

 

勉強に奪われた人生か。後悔し 絶望・苦悩で 夢やぶれ

はじめまして。

Herstalと申します。

 

これが初回の投稿になります。

 

昔、Yahoo!ブログでゲームについて投稿していた時期が1年ほど?あったのですが、

投稿する内容が無くなりやめてしまいました。(その後Yahoo!ブログは閉鎖)

 

なのでブログ自体は初めてではないです。

もっとも、投稿内容は昔と全く異なるものにする予定なので新鮮な気持ちです。

 

 

ここで、なぜブログを始めてみようと思ったのか、自己紹介をしながら述べたいと思います。

 

私は20代前半の大学院生です。

資格試験に向けての勉強等をしています。細かいことはまだ伏せておきましょう。

 

現在目指している仕事は高校生の頃からずっと志望してきたものです。

なので大学選びも学部縛りをして間違いなくその道に進めるように考えて進路を選んできました。

 

大学生になってからも、大学院に進学するためにも周りの学生より優秀な成績を収めるぞという意気込みで、張り詰めて勉強をして過ごしてきました。

 

私の生活には常に資格試験勉強がついて回りました。

 

仲間と飲み会をしても、家族とレジャーに行っても、趣味のゲーム中も、寝ても起きても「試験勉強」の四文字が脳に重くのしかかるのです。

 

「 帰ったら勉強して寝る 」

 

これを唱え続けて生きてきました。暇な時間はある意味ありません。暇な時間=空き時間なのですから、勉強をすべきだと考えて、常に落ち着きませんでした。

 

私には精神的に余裕がなかったのです。来る試験のために準備をしなければならない。

 

試験に受かったら、なりたい仕事に就けたら、などと停止条件付でやりたいことを想像して長らく生きてきました。

 

その夢を実現させるためには今我慢をしなければならない。

無意識に自分の行動に制限を付けて生きてきました。

 

とてもつらかったです。でも将来のためなら仕方がない。近年ではコロナ禍で家で孤独に課題に取り組む毎日が1年以上続きました。

 

そんな中、

人に会いたくなり卒業以来会っていない高校時代の友人に連絡をし、会う約束を取り付けました。

 

会ったのは別人でした。

 

昔と変わらないのは身長と声。それで辛うじて本人だと判断できたのです。

 

きれいな黒い髪も、地味でありつつも凛々しい顔立ちも、慎重な性格も何もかも痕跡無く変わり果てていました。

 

明るい茶髪にウェーブをかけて、化粧は派手になり(素材殺し)、かなり断定的な大雑把な楽天的思考になりました。

 

友人は、高校を卒業してから、私が勉強ばかりして将来を夢見ている間に、日々様々な経験を積み、いいか悪いかはさておき変化を遂げたのです。

 

友人が話す経験一つ一つには確かに輝きがあり、荒っぽくも思い出をたくさん作って人生というものを存分に満喫しているようでした。

 

一方、私はこれまで勉強ばかりで派手に遊ぶようなことをしてきませんでした。

日々の小さな喜びを大切にして生きてきました。

 

精神的に高校生の頃から成長していなかったとでも言いましょうか。

 

大して変わり映えのしない一年一年を過ごし、年齢だけ着実に増やしてきたのです。

体型や顔も高校生の頃から大きく変わっていないと自覚しています。

酸いも甘いも、経験の絶対値が足らんのです。だから顔に深みがなく幼いままです。

(以上は現時点の私見ですが。)

 

そんな私の人生がひどく退屈で無意味なものに感じてたまらなくなりました。

友人と会った夜はあまり眠れませんでした。

 

「みんなが経験を積んで思い出を作っていた間に、自分は資格試験の勉強に憑りつかれていた。」

 

ここで、私の資格試験への情熱が冷めてしまいました。

 

我慢して我慢して辛い勉強を続けて、試験も吐きそうになりながら受験して、それでもなお受かるかわからない。

 

そんな苦労を乗り越えた先でも青春は帰ってこない。

夢が悪夢になった気分です。

 

それから先は、今まで辛かった勉強時間を思い出すたびに「もっと遊んでおけばよかった」としか条件反射的に考えられなくなってしまいました。

 

「こんな難しい事考えなくても人生楽しめたはず」と脳裏でずっと囁かれ、

試験問題などの難しい文章を読んで理解することが困難になりました。

 

人より立派になる!弱者を救済する!人生で何か成し遂げたい!

という意気込みでここまで努力して来ました。

 

でも、

人より立派にならなくても幸せになれる、

弱者を救済する器量はお前にはないお前が弱者だ、

別に大事を成し遂げなくても幸せになれる、

 

という自分の中の声が大きくなっていき、孤独で苦しい試験勉強から逃げたい気持ちもその声を後押しして、ついに心が折れてしまいました。

 

 

自分という国の価値観を担っていた政権が交代した、とふと思いました。

 

この例えは我ながら的確なものだと思います。

 

今までは自民党政権(単なる例)であったため、政権の行う政策はすべて自民党の目標を達成するためにも意味があるものでした。そこに何も疑義を差し挟む余地はありません。完全に、順調にやることをやってきました。

 

しかし、これが政権交代をして共産党政権(単なる例)になれば、これまでの旧自民党政権の実行してきた政策はほとんど価値を持ちません(私の価値観の例としてであり、現実の話ではありません)。新政権である共産党は、これまでの政策をひっくり返して国の行方を180度転換するでしょう。こうなれば自民党政権のやってきた政策は、共産党政権にとっては無価値であり時間の無駄でしかありません。

 

国(自分)の世論(感情)が、一夜にして現れたこれまでと全く異なる意見に同調しはじめ、選挙によって政権(価値観)交代してしまったのです。

 

 

以上を総合すると、自分の価値観が変わってしまった となります。

 

今の私には、これまで人生をかけて目標にしてきた資格試験への情熱はありません。

難しい文字を読むことに集中できません。

 

幸せの全てを捧げて来たと言っても過言ではないでしょう。

 

でももう辛いです。

何かとあれば試験の事を考えて神経尖らせて日々を生きたくないです。余裕のある人間になりたいです。

幸せになりたいです。

 

勉強をしていた時間を思い出すだけで苦痛です。その時間があれば楽しい思い出が作れただろうに。今から戻ってやりなおしたい。

今からでは間に合わないことの方が多いです。

それが余計に過去への回想を苦痛なものにします。

ああすればよかった、漠然としたものではなく具体的な行動が浮かびます。でも人生はやり直せません。

 

そうして、

これまでの人生を振り返って、何もしてこなかったように思えて、自分が空っぽなものに思えてきました。

 

大きな夢を諦め「将来」に振られ、「将来」が居なくなった途端に「過去」たちも蜘蛛の子を散らすように去っていきました。

 

ーー自分にはもう自慢できる過去も輝かしい未来もないんだ、それも自分が弱いから手放したんだ、いや手放したんじゃない元々無理だったんだ、将来のことを考え過ぎだったんだ、結局は全て自分が悪い、高望みせず普通の幸せを目指せばよかったんだーー

 

人生をかけた夢が潰えたとき

私は無気力になりました。

 

過去の後悔が浮かぶと脳が石のように重くなり、筆舌し難い不快感が脳に満たされます。いっそ消えてしまいたい。その方が絶対に楽。

 

 

正直、ブログには書けない悩みもあります。

それらも含め様々な悩みは、元をたどれば、過去の自分への声掛け一つで解消できたものでした。

 

「考え過ぎるな、今を楽しめ」

 

私は自分で人生を生きづらいものにしてきました。

自分で自分の首を絞めていたのです。

 

そのことに気づいた今、絶望に打ちひしがれています。

絶望はこの世のものとは思えません。取り返しのつかない後悔、絶望を味わい続けるのならいっそ消えてなくなりたいとさえ思います。

 

少し変わっているかもしれませんが、私は自分を嫌いになったことが一度もありませんでした。むしろ他の誰よりも自分のことが好きで、自信がありました。

今は自分が大嫌いです。自分が嫌いな自分も嫌いです。過去も現在も全否定状態です。

 

 

絶望の底にいるの同時に、こんな自分のことを応援してくれていた両親や祖父母、友人・身近な人生の先輩たちの顔を思い出すと、人生をここで本当に終わらせるわけにはいかないとも感じます。

 

そこで、今から全力で人生を始めてみようと思いました。

 

手始めに、現在の自分が読むべきかもしれないと感じた 太宰治人間失格』を本屋で購入し読みました。

 

葉蔵の気持ち・考え方が痛いほど共感できる部分が多々あり、

「人間、失格。」はまるで読者の自分に言われたような気がして息が止まりました。

 

 

太宰治は他人にはない感性を持ったばかりに、苦悩し、自ら人生を終わらせました。

 

しかし、太宰治の残した著書は、時代を超えて同様に苦しんでいる人間の苦悩を内部から解してくれます。

 

人間、苦悩から逃れたいものです。直視したくないし、考えたくない。

辛い苦悩の時期が過ぎればー冬が過ぎ暖かい春が来たときのようにー苦悩していたときの本当の感覚を忘れてしまいます。

 

したがって、苦悩している人間の本当の辛さを理解できるのは、現在苦悩している人間だけだと思います。

 

私は、『人間失格』の表現力に敬服しました。

辛い苦悩・絶望を文字に落とし込むことは、ほとんどの人間はできません。

 

文字にすると、どうしても浅くなってしまうのです。

語彙力・表現力の問題でもあると思いますが、それ以前に、本当の苦悩を表現するには自分の苦悩に正面から向き合い、抉りたくない深さまで抉り切らなければなりません。

 

それが怖くて、不快で、単に「つらい」としか言えないのが人間だと思います。

 

人間失格』は苦悩を抱えた読者の気持ちを秀逸に文字に起こしてくれているのです。

だから読むと深く共感でき、自分の気持ちが整理された気がするし、他にも同じことで悩んでいる人がいると意識することができ、ほんの少しだけ気が楽になります。

 

私も、葉蔵に共感した者として、苦悩を抱える人間として、この苦悩を文字に起こしてみたくなりました。

 

せっかくだから、苦悩している人に読んでもらいたい。

万に一つでも、苦悩している方が私の文章を読んで少しでも辛さが和らいだならば、この上ない幸せです。

 

 

以上が、私がブログを始める理由です。

 

 

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

苦悩するあなたに幸あれ。